有名人姓名判断のブログ

今話題の有名人の運勢を古神道由来の数霊術姓名判断にて占ってみたいと思います。

思う心の強さが行動に現れる


営々として築いてきた地位や財産を思い切って投げ出すことは、首をとられるよりも難しい。普通の人には、とても出来ることではない。昭和7年、鹿児島で生まれた稲森和夫は、病気と受験の挫折で苦しみ抜いて世の中へ出た。

「私の前半生は挫折の連続でした。その挫折の中から西郷南州(隆盛)の心と出会って、開眼させられました。どんな難関があろうとも、必ずやり遂げるんだという強い情熱、意志があれば、叶わないものは絶対にないと教えられたのです。仏教では、あの世に行ったら思い通りのことが出来ると言っていますが、それは現世でも可能なのです。思う心の強さが行動に現れ、不可能と思われていたことを可能にして行ってくれます。〝念〝こそ最大のパワーだと言うことです。私はこのことを西郷南州に学びました」

京セラを独力で世界の企業に育て上げた稲森和夫社長は、今第二電電の新構想に挑戦している。

「昭和62年12月から東京→名古屋→大阪間の市外通話サービス開始を目指して計画を具体化しています。将来は全国にネットワークを広げて行きたいし、国際通信も手掛けて行くつもりです」

稲森和夫社長の構想に出資してきた会社が225社あるところを見ると、利益一本槍ではない。稲森和夫個人の人間的魅力が大きく作用しているのではあるまいか。

西郷南州は征韓論に破れ、陸軍大将の地位も捨てて郷里の鹿児島に帰ってきた。政府は維新の功績に報いようと、二万円の大金を西郷南州に届けた。その金を西郷は一銭も利せず、鹿児島の貧しい若者を教育するために投じたのである。私学校はこの二万円で各地に造られ、鹿児島の子弟を教育する。

稲森和夫は、この西郷南州に男の生きざまを見ているのだ。昭和59年の春、稲森和夫は私財200億円を投じて「稲森財団」を設立した。毎年一回、科学文明の発展や人類の精神高揚に貢献した個人またはグループに、稲森賞を贈ることに決めた。賞金は4,500万円、ノーベル賞と肩を並べた。

京都の片隅で誕生したベンチャー企業の京セラが大きく成長したのは、稲森和夫社長の人間の魅力に負っていることは、誰でもが認めるところである。しかし、それによって蓄えられた200億円の私財を、貧しい研究者のために投げ出すとは、側近の人々も考えていなかった。企業から得た利益を自分の欲望のために使う気持ちは、稲森和夫社長にはなかった。だからこそ第二電電に株主として参加を申し込む経営者が群を抜いて多いのである。

今、京都・建仁寺の境内に立って、栄西の慈悲心が群を抜いて厚かったことを思い、京セラ・稲森和夫社長の財を私蔵しない志を思う。人間、口で言うのはやさしいが、自分が蓄えた財産を他人のために投ずることは、至極難しいことなのである。


←赤根祥道先生著書「自己修養のすすめ・十大禅師に学ぶ人生の極意」の「第二章  心身不動の胆力を養う・栄西禅の極意に学ぶ」から抜粋


今回は「思う心の強さが行動に現れ、不可能と思われていたことを可能にして行ってくれます。〝念〝こそが最大のパワーだと言うことです」という箇所に着目しました。

私は二回目のリストラを受けた後、商事会社の事業部長として無事に就職出来ました。それから1年経過した頃に二回目のリストラをした会社の会長が是非とも会いたいとのことで自宅へ伺いました。開口一番「リストラして本当に申し訳なかった。何とか専務として戻って来てもらえないか」ということでした。話をよくお聞きすると「長男に社長をさせているが、経営は上向かず銀行は益々厳しい改善要求をしてくる。君が他社で大活躍している噂を聞いて、ここは一つ恥を忍んでお願いしたい」とのことでした。

私は「わかりました。私に全てを任せて頂けるならお引き受けしましょう」と即答しました。リストラを受けた会社に戻って専務として会社の経営内容を総点検し始めてから半年後には、社長に指名されました。

社長になって最初の1年間は、メイン銀行と相談しながら同族会社の会長や前社長が長年手を付けられなかった赤字2部門を次々に閉鎖リストラして行きました。最終的には不動産部だけを残しましたが1年後の決算では何とか経常黒字となりました。決算後の株主総会では以前の社長であった長男や三男から涙ながらにお礼を言われました。

私がリストラを受けた会社に専務として戻る時は「ヒラの営業マンから10年間もお世話になった会社の危機を何とか救って恩返ししたい」という一念のみでした。ですから怖いものは何もなく、会社の経営再建のために気付いたことは間髪入れず次々に実行して行きました。若い時に経営相談の仕事で全国を飛び回っていた時の経験も大いに役立ちました。